大内宿のなりたち
江戸時代初期に現在の福島県会津若松から栃木県今市に至る下野(しもつけ)街道の宿駅として整備され、街道沿いに家が建ち並ぶようになりましたが、その後主要街道は白河街道に移ってしまいます。
大内宿へのアクセス
磐越自動車道新鶴スマートIC(ETC専用)から県道72号、県道131号経由で約70分。
会津若松ICからだと国道49号、118号、401号、県道23号、県道131号経由で約70分。
大内宿入口の有料駐車場を利用。
山の深くに風情ある宿場町
会津若松から南へ抜ける下野街道(日光街道)の2番目の宿場として1640年代に整備された大内宿は、全長約450mの往還を挟んで、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並んでいます。ほとんどの家が茅葺きで、街道は会津藩主の参勤交代路や、江戸への廻米路として利用されました。
県道131号沿いにある駐車場に車を置いたら、旧道へ歩いて入って行きましょう。しばらく何もない道を進めば、茅葺きの家が右手に見えてきます。玉屋(分家)、その奥には三澤屋です。
こちらの三澤屋は飲食店として営業しており、なかでも「高遠そば」が有名。会津名産の蕎麦を箸の代わりにネギをまるっと一本使い、手繰り寄せて食べる独特のスタイルで人気です。
三澤屋の奥が松美屋で、陶器などのお土産屋さん。
続いて南仙院本家、萬屋、伊勢屋、みなと屋と茅葺き屋根が続いて行きます。伊勢屋は民宿とお土産、みなと屋は蕎麦屋です。
もちろん道の左側にも家は並んでいます。伊勢屋の道を挟んで向かいにはこめ屋、その隣には山本屋。山本屋も蕎麦屋を営んでいます。
そうこうするうちに大内宿の中ほどまでやってきました。ここは丁字路になっていて、右手に火の見櫓、左手に鳥居があります
鳥居をくぐってまっすぐ歩いて行くと、高倉神社です。
大内宿はもともと山本と呼ばれていました。その昔、平安時代後期に後白河天皇の第三皇子であった高倉以仁王(たかくらもちひとおう)が平家討伐の令旨を発令します。しかしながら宇治平等院での戦いで敗れて死亡。ところがこの戦いで以仁王は死なずに東国へ逃れたという噂が駆けめぐるのでした。(くわしくはこちら)
そして逃亡した以仁王がこの地に辿りつき、しばし逗留した際に、この地の風景がどことなく宮中の内裏(だいり・大内)と似ていたことから、山本より大内へと名を改めたそうです。
その後、以仁王を祀った社は明治になって高倉神社と名を定め、今に至ります。
ふたたび街道へ戻って北上しましょう。右手にはえびす屋(分家)、大黒屋、みなとかわ屋と続きます。
みなとかわ屋の向かいには一段と大きな茅葺き屋根の重厚な建築。これは大内宿本陣跡に復元した宿駅時代の本陣で、大内宿町並み展示館として開放されており、当時の風習を伝える写真や生活用具が展示されています。
みなとかわ屋から引き続いて、山形屋、たまき屋、美濃屋(分家)と軒が連なります。
そのまままっすぐ進んで、突き当たりに浅沼(扇屋分家)の建物まで行けば、宿場は終点です。
大内宿は見ての通り、茅葺き民家が建ち並ぶ壮観な風景が印象的ですが、決して旧来からこの景色というわけではありません。
天和3年(1683年)の日光地震では葛老山が一部崩壊して街道が水没したため、代替の街道である会津中街道に物流はシフト。明治17年(1884年)には会津西街道が付け替えとなって日光街道と改称され、完全に大内宿は街道ルートから外れてしまいます。
さらに大内宿に押し寄せたのは近代化の波でした。屋根は茅葺きからトタン屋根になりつつありました。
それでもまだ残っていた茅葺き屋根の建築を保存しようという運動が起きますが、当時は保存よりも近代化が優先され、運動はさほど盛り上がりませんでした。
昭和55年(1980年)、「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、翌年大内宿は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されます。
それ以降、無電柱化や、アスファルト道路から土の道への復元、茅葺き屋根の復元などが長期にわたって続けられ、地元の人々の努力の甲斐があって現在の素晴らしい景観ができあがったのです。