全国伝統歴史 町並み散歩/古い城下町や宿場町、古民家を写真で観光

都心の片隅に佇む西洋建築
岩手県「盛岡」の町並み

岩手県 盛岡(城下町)
洋風建築商家民家

 盛岡のなりたち

約400年前の慶長年間、南部信直(なんぶのぶなお)が、北上川と中津川が合流し、丘陵に囲まれた不来方(こずかた)に城を建てたことで現在の盛岡城下町の基礎が築かれました。

 盛岡へのアクセス

東北道盛岡ICから国道46号経由で盛岡市街へ。盛岡での移動は車移動が便利です。

 都心に残る往年の建造物

盛岡の城下町は五の字型で建設され、盛岡二十三町と呼ばれる町人町やいくつもの武家屋敷ができました。

盛岡城下町の中心にあり、中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていた紺屋町には、江戸中期になるとこの地へ移ってきた近江商人をはじめ豪商が軒を連ねはじめ、特に寛延2年(1749年)に創業した近江商人の鎚屋は藩内一の豪商として栄えました。

茣蓙九

紺屋町に今も残る茣蓙九(ござく)。文化13年(1816年)に創業し、江戸後期から明治時代にかけて増築を繰り返し建てられた豪商の家屋がしっかりそのまま残っています。格子戸のある低い屋根、平入りの2階建て瓦葺き出桁造りで、今でも荒物・日用品を扱っている雑貨屋として営業しています。

茣蓙九のすぐ近くには昭和2年(1927年)に建造された盛岡信用金庫本店がどっしりと構えています。

盛岡信用金庫本店

盛岡信用金庫本店

旧盛岡貯蓄銀行。東京駅の設計者である葛西萬司(かさいまんじ)による設計。6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、 内部にあるステンドグラスは重厚感たっぷりで、建設された昭和初期のモダニズムを感じさせます

その斜め向かい、ちょうど中ノ橋のたもとに建つのが岩手銀行中ノ橋支店(旧盛岡銀行本店)です。設計は辰野金吾(たつのきんご)と葛西萬司。東京駅に似たこの建物は当時の建築様式を伝えるものとして国の重要文化財に指定されています。
明治44年(1911年)に建てられ、赤レンガ造りに緑色のドームを持ちルネッサンス風の格調の高さで盛岡のシンボルとなっています。

岩手銀行中ノ橋支店

そのまままっすぐ進むと右手にもりおか啄木・賢治青春館の建物が視界に入ります。ここは旧九十銀行本店だったもので、設計は盛岡出身の若き建築家横濱勉(よこはまつとむ)で、明治43年(1910年)に完成。

当時の銀行は営業室が高い吹き抜けであるものが定番だったものを、1階部分だけのものとし、2階に広い総会室(集会室)を設けているのが特長。
大正時代の表現主義建築の先駆であり、外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式、内部は直線的で簡潔なゼツェッシオン式の影響がみられます。

もりおか啄木・賢治青春館

中ノ橋の近くにはもうひとつ特色のある建造物があります。踵を返して北へ戻り、茣蓙九の先まで行くと紺屋町番屋です。

紺屋町番屋

大正2年(1913年)に消防番屋として建てられ、屋根の上の望楼が特長的な建物で、現在でも建物は現役で使われています。消防組織の変遷を伝える貴重なものです。

 郊外にも残る建造物

中津川をそのまま遡ったところにある盛岡市中央公民館にも貴重な建造物があります。それは旧中村家住宅

旧中村家住宅

盛岡市南大通にあった建物が寄贈されて、中央公民館構内に移築。中村家は天明2年(1782年)に創業した呉服屋で、「糸屋」の屋号を名乗っていました。以後、藩の庇護を受けて紫根染を家業とし、豪商に成長します。

主屋は文久年間に建てられ切妻平入り瓦葺きで、1階には日本海側でよく見られる「こみせ」のような空間があって、風雪を防いでいます。建物左外壁は隣家への防火のために「うだつ」が上がっています。
右側に隣接する土蔵は明治時代に建設されたもので、主屋と合わせて国の重要文化財に指定されています。

旧中村家住宅

国道4号を北上川上流方向へ走ります。途中で国道46号に入り、岩手大学のキャンパスへと向かいます。キャンパスの南側は農学部になっており、岩手大学ミュージアムや附属植物園などの施設が開放されています。
農業教育資料館が聳えています。

百年記念館

百年記念館

百年記念館は昭和3年(1928年)盛岡高等農林学校創立25年記念式で得業士から寄付された建物で、農業教育資料館のすぐ隣にあります

農業教育資料館はわが国初の高等農林学校として明治35年(1902年)に創設された旧盛岡高等農林学校からの歴史を展示する施設で、明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、 現存する数少ない遺構のひとつです。

農業教育資料館

さらに北上川に沿って上流へ行けば北上川ダムのほとりにある「岩手県立博物館」に到着します。ここには2軒の古民家が移築されています。

旧藤野家住宅

まずは岩手県奥州市から移築された旧藤野家住宅。19世紀前半に建てられた農家で小さめの40坪ほどの広さですが、建築当初からほとんど改修されず江刺地方の典型的な平面構成をそのまま残しています。

旧佐々木家住宅

もうひとつは岩泉町から移築した旧佐々木家住宅です。南部藩でよく見られた民家の様式である曲り屋で、曲りの部分は馬屋として使われていました。広さは平均的なもので、佐々木家は江戸時代、平泉の肝煎(庄屋)を務めていました。