函館のなりたち
享徳3年(1454年)、蝦夷地に渡った河野政通の函館山の麓に築いた邸宅が箱形だったために「箱館」と呼ばれるようになり、明治時代になって「函館」と改められました。
函館へのアクセス
JR函館本線函館駅前から出ている路面電車(函館市電)が便利。1日乗車券(大人600円)を買って何度も乗り降りしましょう。坂道を歩くのでスニーカーのような歩きやすい靴で。
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高田屋嘉兵衛と函館
淡路島に生まれた高田屋嘉兵衛(たかたやかへえ)は寛政7年(1795年)に辰悦丸を建造して廻船業、蝦夷地経営に乗り出します。幕府の命により「箱館高田屋造船所」を創業。また蝦夷地定雇船頭に就任、名字帯刀を許されて、造船と運用雇船の支配を委ねられました。
択捉などの漁場開発に伴って箱館は繁栄し、のちの開港の基礎を創ります。嘉兵衛は財産すべてを蝦夷地の発展のため投じ、個人所有の田畑はほとんどなかったそうです。これゆえ、箱館発展の恩人と称されています。
JR函館駅前から函館市電に乗って南へ向かいましょう。3つ目の電停「十字街」で下車します。港へ向かって歩けば左手に箱舘高田屋嘉兵衛資料館があります。
大正12年(1923年)に建てられた1号館と明治36年(1903年)に建てられた2号館が並んでいます。もとは昆布倉庫として使われていました。
資料館からすぐ先には、函館のシンボル赤レンガ倉庫群です。
金森倉庫の総称で知られるこの倉庫群は、大分県竹田市で生まれ箱館に渡ってきた渡邊熊四郎(わたなべくましろう)によるもの。輸入雑貨や船具の販売等の事業を営んでいた熊四郎は、明治20年(1887年)に営業倉庫業に乗り出します。
倉庫業は大成功。年を追うごとに増す預り荷物に対応するため次々と近隣の土地を確保して倉庫を増築、規模を拡大していきました。
明治40年(1907年)に起きた函館の大火で倉庫も延焼しましたが、耐火性を痛感した熊四郎は不燃質倉庫を再建、3年後には利益をあげるまでに回復しました。
岸壁まで来たら左に折れ、そのまま倉庫を左手に観ながら港を歩きます。
まっすぐ進み、市電の通りまで来れば函館博物館郷土資料館です。
この資料館は熊四郎が函館で興した最初の事業である金森洋物店の建物を利用。
日本の土蔵造りの技術とレンガを使った洋風の技術とを折衷させています。
坂と教会の町、函館
資料館をあとにしたら、少し市電通りを戻って八幡坂通りへ。
ここから坂を登ります。振り返ると港に停泊する船も見えますね。
坂の中腹を左に折れたところには日本基督教団函館教会が白亜の姿を見せています。尖塔アーチの窓などゴシック様式デザインが目を引きます。
函館は教会の多い町でもあります。八幡坂を登り切り、また左に折れると同じく左手にカトリック元町教会。六角形のとがった塔や風見鶏のあるゴシック様式の建築で、何度かの火災の末、大正13年(1924年)に再建されたものです。
元町教会の山手向かい側には函館ハリストス正教会が堂々とそびえています。その隣にも北海道で最も古い教会である「聖ヨハネ教会」があります。まさに教会天国。
函館ハリストス正教会
レンガ壁に漆喰塗仕上げした白壁と緑色銅板屋根の美しさが際立つ聖堂です。国の重要文化財に指定されています
西洋建築が立ち並ぶ町
今度は坂を下りずにそのまま海岸線と平行に北西へと歩きましょう。ほどなく行くと、旧函館区公会堂が左右対称のコロニアルスタイルの美しい姿で函館港を見下ろす高台に佇んでいます。
公会堂のすぐ下には明治42年(1909年)に再建された函館市写真歴史館。玄関ポーチに特長があり、明治の木造建築の中でも格別な美を誇っています。
写真歴史館から「基坂」を下ります。すぐに旧イギリス領事館が目に入ります。レンガ造2階建で外装は塗壁仕上げが施され、シンプルな意匠の建物です。
基坂を市電通りまで下りたら、市電に乗り込みます。わずか1駅だけですが電車に揺られ「大町」電停で下車。ここにも見所があるのです。
電停から港の方へ歩いて1ブロック。旧函館西警察署庁舎を再整備した函館市臨海研究所がまずあります。
そこからわずか100mも行かないうちに次のスポットです。
太刀川家住宅
建物両脇に「うだつ」が付いた和風の商家。煉瓦製で外壁に漆喰を塗った明治後期の函館に多く建てられたスタイル。1階部分に洋風の意匠が見られます。現在はカフェになっています
ここからしばらく歩き、幸坂を登りきったところにあるのは、旧ロシア領事館。明治41年(1908年)に建てられ、昭和19年(1944年)まで使用されていました。レンガ造2階建で正面の和風の唐破風と洋風の柱がポイントです。
あとは、坂を下りて電停から市電に乗って帰りましょう。
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