全国伝統歴史 町並み散歩/古い城下町や宿場町、古民家を写真で観光

水清き流れに鯉が泳ぐ
長崎県「島原」の町並み

長崎県 島原(城下町)
武家民家洋風建築

 島原のなりたち

江戸時代初期に島原に入った大名、松倉重政(まつくらしげまさ)が島原城を築いたことから、城下町として発展しはじめた島原。しかし石高に見合わぬ大きな城を築城したため領民には過酷な年貢が強要されます。

 島原へのアクセス

長崎自動車道諫早ICから国道34号、国道57号、国道251号経由で約70分。
またはJR長崎本線諫早駅から島原鉄道のりかえ75分、島原駅下車。

 水の都の武家屋敷を往く

JR島原駅から見て西に聳え建つ島原城
元和4年(1618年)から松倉重政が、森岳と呼ばれていた高地を整地して石垣を積み上げ、濠を開削して築きあげたものです。五層天守閣を中核に50もの櫓を配して、これを囲む矢挟間塀の長さは総延長2,233mという大規模なものでした。

しかしこれほどの規模となると10万石大名の城のレベルであり、禄高4万3千石の島原藩にとって築城の費用は藩の財政にずっしりのしかかります。そのツケは領民にまわされ、過酷な租税負担に反発した民が蜂起する島原の乱の原因のひとつとなってしまうのです。

島原城

壮麗な容貌を誇った島原城でしたが、明治時代に取り壊されてしまいました。現在聳える天守閣は昭和39年(1964年)に再建されたもの。館内は島原の資料館になっています。
ちなみに城内では無料で甲冑姿の侍や忍者姿の仮装ができますよ。

城を出て小路を歩いていき、南へ下り、川のほとりまで行くと島原城下本陣中村家屋敷門があります。
ここは文久4年(1864年)に初めて長崎に入った坂本龍馬が、往路は休憩を取り、復路は宿泊したとされています。現在は碑と移築された屋敷の門が現存しています。個人宅なので外観のみの見学しかできません。

島原城下本陣中村家屋敷門

踵を返して北上します。島原城の西にあたる地区は鉄砲町と呼ばれる武家屋敷の町。ここには鉄砲組と呼ばれた徒士が住んでいました。当初は隣家との間に塀がなかったので、銃砲身を覗くように武家屋敷の町並みが見通せたので、その名がつきました。

街路の中央には細い水路が流れています。町の北西にある熊野神社を水源としており、水奉行を置いて厳重に管理されていました。

水路脇を歩いて行くと右手に鳥田邸。鳥田家は代々地方代官や郡方物書を勤めました。中は無料で見学できます。

鳥田邸

歩みを進めて左手には篠塚邸。三河出身でこの地へ移り、郡方祐筆や代官を代々勤めていました。中にマネキンが見えますね。

篠塚邸

篠塚邸の斜め向かいには山本邸です。邸宅は明治元年(1868年)に建設されたものですが、山本家は安永3年(1774年)に島原入りしました。以降島原城主に仕え、明治以後もあわせて10代続いています。代々、武術鉄砲術に秀でた家系でした。

篠塚邸

武家屋敷から再度島原駅方向へ向かいましょう。島原城を廻り込むように東へ進み、市街地へ戻ってきました。
瀟洒な西洋建築青い理髪舘でひと休み。大正12年(1923年)に建てられたもので、文字通り理髪店として営業していましたが、主人が戦死したため人手に渡り、時代の流れとともに老朽化。解体の話も出ましたが、平成12年(2000年)に町の有志たちの手により再生され、今に至ります。
中は喫茶店と観光案内所、ギャラリーになっています。

青い理髪館

 島原湧水群

今度は南へ足を伸ばします。歩くのには少し遠いですが、新町地区まで進みます。
島原は古くから「水の都」と呼ばれていて、雲仙山系に涵養された水が市内の50か所で湧出しています。島原湧水群として昭和60年(1985年)環境庁の全国名水百選に選定されました。

新町にあるしまばら水屋敷では、明治時代に建てられた和洋折衷の屋敷の縁側で湧水を眺めながら甘味を楽しむことができます。

しまばら水屋敷

新町には湧水を活かしたものがまだあります。鯉の泳ぐまちです。
昭和53年(1978年)から、町内の清流では錦鯉を放流。今では紅白、三色、黄金など約1,500匹の錦鯉が悠々と泳ぐ姿を見ることができます。

鯉の泳ぐまち

鯉の泳ぐまちにある庭園が四明荘(しめいそう)です。大正9年(1920年)に建てられた主屋に面して、禅僧を招いて作庭した庭園があります。庭内には、清水が湧き出る大小の池が3つ。こちらも無料で見学できます。

四明荘

他にも市内には至るところに湧水スポットが点在しています。湧水めぐりもまた楽しいかもしれません。

画像引用:社)長崎県観光連盟様 (http://www.nagasaki-tabinet.com/)、PHOTO STOCKER様(http://photo.v-colors.com/)