唐津のなりたち
古代からの大陸との交流の軌跡を伺わせる史跡が多く残る唐津が、城下町の形を創りだしたのは江戸時代初期。 防風林の松林整備により有名な虹の松原が誕生し、唐津焼、唐津くんちといった独自の文化が育ちました。
唐津へのアクセス
福岡県博多から、福岡市営地下鉄空港線・JR筑肥線経由でJR唐津駅まで75分。
自家用車の場合は福岡都市高速環状線から西九州道(今宿バイパス)、二丈浜玉道路(かもめロード・国道202号)経由で50分。松浦川の河口にある東城内駐車場に駐車して散策をしましょう
松枝映える町並み
唐津市内を流れる松浦川の河口そばにある東城内駐車場から歩き始めます。すぐ眼前には唐津城。虹の松原を見下ろし、東西に広がる松原がまるで鶴が翼を広げたように見えることから「舞鶴城」の異名を持っています。
唐津城は肥前唐津藩の初代藩主であった寺沢広高(てらざわひろたか)によって造営されたもので、現在の天守閣は昭和41年(1966年)に建設され、中は郷土博物館になっています。
唐津城を取り囲むように散策路が整備されていますので、そこをぐるっと歩いて行きましょう。
松浦川の河口に沿って城の東側から散策路に入っていきます。しばらく進めば唐津湾。松を吹き渡る海風を感じながらの散歩はなかなか心地よいものです。
そのまま西側に廻り込むと早稲田佐賀高等学校・中学校の裏側に出ます。校庭のフェンスは石垣になっていて、唐津城二の丸北側を囲んでいます。二の丸には藩主邸宅がありました。
西へ歩みを進めると二ノ門堀。二ノ丸と三ノ丸の境に当たる堀です。ここには門があり、二ノ丸へ入る者の監視などが行われていました。
堀の先、右手には旧高取邸の広大な邸宅が見えます。明治期の実業家であった高取伊好(たかとりこれよし)が炭鉱経営で得た財で建てたもので、和風建築の中に洋風のしつらえも組み込んであります。大広間の能舞台は圧巻。
続いて三差路を左に折れ、河村美術館の前を通れば埋門ノ館(うずめもんのやかた)があります。武家屋敷風の木造平屋建ての市民向け文化施設です。
時の太鼓
埋門の館から東へ戻った先にあり、4代目藩主土井氏のころに設置された時を告げる鐘が発祥。現在は、7時から19時まで1時間おきに中から武家人形と大太鼓が出てくるからくり仕掛けが施されています
三ノ丸の入口にあたる場所は西ノ門があったところで、その史実を基に、西ノ門館が建てられています。館内は唐津の歴史資料や、11月2~4日に開催される唐津を代表する祭りである唐津くんちの曳山の修理見学ができるスペースがあります。
北城内交差点を南に折れて唐津神社に沿って下れば右手に曳山展示場があります。唐津くんちの曳山を展示しており、各町ごとに保管していた曳山を火災予防の目的と観光資源化するため一堂に集めました。
唐津くんちは京都の祇園祭を見て感動した者が、唐津で獅子の頭を作り、唐津神社に奉納したのがおこりとされています。「くんち」とは祭りの意味。
今では14台の曳山が市内を練り歩く唐津を代表する行事となりました。
そのすぐ隣には唐津神社が。奈良時代に創建され、文治2年(1186年)に社殿を造営。江戸時代は唐津藩主の祈願所として重んじられてきました。唐津くんちは唐津神社の秋季大祭になります。
神社の参道前を折れてさらに南下すると肥後堀です。唐津城建築の際に協力を仰いだ藩の名前が堀に命名されており、ここはそのひとつ。
もう一筋南へ行き、東へ進路をとって進めば、うなぎの竹屋があります。
竹屋は明治期創業の老舗で、当初は刀研ぎでした。木造3階建ての店舗は大正12(1923)年に建設されたものです。
すぐ先には旧唐津銀行本店の煉瓦造り。明治45年(1912年)に東京駅を設計したイギリス人建築家コンドルに学んだ辰野金吾が監修して、弟子の田中実が設計したものです。赤い煉瓦と白い御影石の対比が美麗。
ひとつ北に筋を戻って三ノ丸辰巳櫓も見ておきましょう。三ノ丸の東南の隅にあり、見張りのためのモノです。現在の櫓は平成になってから復元されました。
町田川を渡り、千代田町交差点を右折して左へ折れた大石町にも平入り切妻造り中二階建ての町並みが残っています。余力があれば訪ねてみたいもの。
そろそろ歩き疲れた頃合いでしょうか。あとは町田川に沿って北上し、城内橋を渡って駐車場へ戻ります。