知覧のなりたち
戦火に見舞われた鹿児島県で現存している数少ない古い町並みの知覧は、江戸時代に薩摩藩が領内に配した外城のひとつ。領主佐多氏の邸宅とその家臣団の集落があったところです。
知覧へのアクセス
鹿児島市街から谷山IC、南薩縦貫道(県道20号・19号)経由で約45分。
または鹿児島市山形屋バスセンターから鹿児島交通バスで1時間30分。
立ち並ぶ武家屋敷
江戸時代、薩摩藩は鹿児島に武士を住まわせるのではなく、外城(とじょう)と呼ばれる郷ごとに分散して居住させました。その数は113箇所もあり、邸宅である御仮屋(おかりや)を中心として麓(ふもと)という武家集落を形成します。 そして知覧も113個の外城のうちのひとつでした。
知覧の町は2度ほど移転しています。元来は今の場所から1.5kmほど南西の知覧城を本拠としていましたが、転封や城の焼失などで、中郡と呼ばれる特に移転。江戸時代中期に十八代当主である佐多久峰が上郷地区に御仮屋を移しています。現在残っている武家屋敷群はこれに当たります。
町並みの西の端にある検察庁の建物。このあたりに御仮屋があったとされていて、ここから本馬場(ほんばば)と呼ばれる広い道が東へ延びています。
本馬場は緩い曲線を描きながら蛇行し、道に沿っていくつもの武家屋敷が立ち並んでいます。
佐多直忠氏邸
門をくぐると大きな切石に突き当たります。これは屏風岩とも呼び、目隠しと防衛を兼ねた造りになっています
庭園と特攻隊
知覧の武家屋敷の特長は切石整層積みと呼ばれる立派な石垣と槇の生け垣ですが、門内に足を踏み入れると、更なる特長を目の当たりにできます。
それは日本庭園。今も7つの庭園が昔ながらの姿で残っており国の名勝に指定されています。
上の写真は森重堅氏邸庭園です。寛保元年(1741年)に母屋が建てられ、庭園はその後に整えられました。 知覧の庭園では唯一の池泉式庭園で、曲線を活かした池に石で山や半島を表現し、対岸に洞窟を表現した穴石を用いています。水は庭園の裏から湧き、どんな日照りでも枯れたことがないそうです。
また民家も独特の風情を誇っています。旧高城家住宅がそのひとつ。現在でも南西諸島で見られるような主屋(オモテ)、付属屋(ナカエ)、厩、便所、風呂場がそれぞれ独立した分棟型が基本で、オモテとナカエを連結させた建物として棟と棟をつなぐ小棟の形状は独特。知覧型二ツ家と呼ばれています。
そして知覧といえば忘れてはいけないのが特攻隊です。昭和17年(1942年)、旧陸軍の訓練用飛行場として開設された知覧飛行場は、太平洋戦争中の沖縄戦特攻作戦の本土最南端基地として使われました。特攻作戦で亡くなった1036人のうち439人が知覧飛行場から出撃しました。
知覧特攻平和会館
特攻隊員が出撃前に両親に書いた手紙や軍服などの遺品、遺影、実際に使われた戦闘機などの史料を展示しています