全国伝統歴史 町並み散歩/古い城下町や宿場町、古民家を写真で観光

世界遺産で近代産業の礎に
思いをはせる「富岡製糸場」

千葉県 富岡製糸場(その他)
工場民家洋風建築

 富岡製糸場とその周辺

明治5年(1872年)フランスの技術を導入して開設された官営模範工場のひとつである「富岡製糸場」は、昭和62年(1987年)の操業停止まで115年間、この地における生糸生産の中心的役割を長らく果たしてきました

 富岡製糸場へのアクセス

鉄道では上信電鉄高崎駅から約40分。上州富岡駅下車徒歩約15分。
自家用車なら上信越自動車道富岡ICから駐車場まで約10分、 駐車場から徒歩約10分

 世界遺産を見に行こう

富岡製糸場が国によって開設されたのは明治5年(1872年)のこと。江戸時代末に日本は鎖国を解いて開国し、諸外国との貿易を大々的に開始しました。ちょうどフランスやイタリアで蚕の病気が流行したことと、清国も内乱により混乱を極めたことから、日本産の生糸はすぐに輸出品のトップに躍り出ます。

しかし急激な増産による劣悪品の増大もあり、日本産生糸の価値は明治維新のころには急減。そこで国が率先して器械製糸工場を開設し、高品質で世界に通用する高級品を大量生産すべきだとの声が高まりました。

群馬県、当時の前橋藩は藩営の前橋製糸所を既に開設していましたが、その規模は小さなものでした。
そのころ、横浜のフランス商館勤めをしていたポール・ブリュナ(Paul Brunat)が国営新工場の設置候補場所を探しており、前橋製糸所からさほど遠くないこの地富岡に白羽の矢を立てたのです。
その理由は非常に明快なものでした。

まず何よりも原料の調達が容易であることです。上州はもともと養蚕業が盛んな土地ゆえに、繭はもちろん、機械を動かす水と石炭、その全てが手に入る場所でした。
なおかつ建設場所として公有地があること、その周辺は農業に不向きな土壌だったため、耕作に代わる産業が地元で求められていたことも大きな理由となりました。

設立当初の富岡製糸場
▲設立間もないころの富岡製糸場遠望

すぐに計画は実行に移されました。建物の骨組は木材を使用し、壁には煉瓦を積み入れた 「木骨煉瓦造」という和洋折衷工法で建設され、着工から1年半後に工場は完成。

ただ「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」といったデマが広がり、工員集めには苦労したようです。初代場長に就任した尾高惇忠(おだかあつただ)は、デマを払拭すべく自身の娘を工女として採用しました。それでも明治5年(1872年)10月の操業開始時点では、予定の半分の人数しか集まらなかったそうです。

正門

富岡製糸場は正門から入場しましょう。
入ってすぐ左手に瀟洒な和洋折衷建築があります。検査人館と呼ばれるこの建物は、工場稼働の翌年に建てられました。この工場はフランス式の製造工法を導入したため、技術指導や機械メンテナンスのためにフランス人技術者の宿舎として使用されました。

また、のちには貴賓室も造られ、工場を視察する皇族や役人の控室としての役割も担っていました。

検査人館

正門からも堂々とその体躯を広げる姿を観賞できる東繭倉庫(ひがしまゆそうこ)は、その名の通り繭の倉庫。
繭は湿気を嫌うため、操業当初は風通しが良い2階部分のみを倉庫として使ったそうです。

東繭倉庫

倉庫に搬入される前に、繭はまず乾燥させます。発蛾を防ぎ、含有水分をある程度まで蒸発させて腐敗やカビの発生を防止するために欠かせない初めの工程です。
そして倉庫に運ばれて出番を待つわけです。東繭倉庫は現在、売店やビデオコーナーになっています。

キーストーン

キーストーン

東繭倉庫のアーチの中央部分には「明治五年」と操業開始時の年号が刻まれています

東繭倉庫の前を左折して進むと、今度は左手に女工館があります。正門すぐの位置にあった検査人館が男性用の宿舎であったのに対し、こちらは女性用宿舎。コロニアル様式で建設されています。

女工館

そのまままっすぐどんどん進むと、正面に見えてくるのがブリュナ館です。ポール・ブリュナと家族のための宿舎として建てられました。ブリュナはここで明治8年(1875年)まで暮らし、その給料は750円。現在の約1,500万円に相当します。かなりの高給取りだったわけです。
ブリュナが去ったのち、この建物は工女たちの夜学校として使われていました。

ブリュナ館

踵を返して女工館の手前まで戻ります。左折すると左手に続く長い建物。これが繰糸場(そうしじょう)、いわゆるメインの工場です。

倉庫で寝かされていた繭は、煮繭(しゃけん)という工程を迎えます。繭から糸を引き出すためにお湯で煮るのです。大量に発生する蒸気を逃がすため、屋根が越屋根になっています。

繰糸場

また、明治初期のことですから電灯もありません。そのため、明かりとりのため、窓を大きく多くとっていました。
煮沸されて引き出された糸は、複数撚り合わせて一つの枠に巻き取ります。そのままでは糸同士がくっついてしまうので、もう一度大きな枠に巻き取って、枠を外せば生糸の完成となります。

繰糸場
▲設立間もないころの繰糸場(大量の蒸気が上がっています)

繰糸場の奥には西繭倉庫です。アーチがないこと、窓の数が異なることを除けば東繭倉庫とほぼ同じ造りになっています。

西繭倉庫

富岡製糸場をぐるっと見学したあとは、近郊の見どころにも立ち寄っておきましょう。
歩いての移動は難しい距離なので、自家用車での訪問が良いかと思われます。

国道254号を西に走り、一ノ宮交差点から脇に入ったところにある貫前神社(ぬきさきじんじゃ)は、上野国一宮の由緒ある神社です。
地形的にちょっと独特なこちらの神社は、本殿が境内入口よりも低い位置にあります。参道から石段を上がって、総門を潜り、再度石段を下ると社殿に到着するのです。

貫前神社

さらに西へ脇道を進んだところには旧茂木家住宅と宮崎公園が。
この住宅は大永7年(1527年)に建てられたとされ、我が国に残る民家としては最古のものです。切妻造の板葺石置屋根で中世の建築様式を色濃く残しています。

旧茂木家住宅

画像引用:画像引用:富岡市・富岡製糸場様(http://www.tomioka-silk.jp/hp/rental/index.htm)
東京国立博物館様(http://www.tnm.jp/)、
富岡市商業観光課様(http://www.city.tomioka.lg.jp/www/contents/
1000000001885/index.html)