野田のなりたち
中世には武将の居城があった野田は、江戸時代に入ると醤油の醸造をきっかけに栄えるようになりました。19世紀になると野田は、それまでの本場だった関西の醤油をしのぐほどの醤油醸造の地位を確立します。
野田へのアクセス
野田へは鉄道でのアクセスが便利。大宮から東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)で約40分、柏からなら東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)で約20分で野田市駅です。
マイカーの場合は常磐自動車道柏ICから国道16号、県道46号経由で約20分。
醤油醸造の町を歩く
東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)の野田市駅に降り立ち、県道46号を西に歩いて行きましょう。高い壁に挟まれた道を進めば、すぐに巨大なサイロが視界に入ってきます。
サイロに描かれた亀甲萬の紋はまさしくあのキッコーマンのもの。ここはキッコーマン株式会社野田工場製造第1部です。
ここにはもの知りしょうゆ館があり、事前に電話予約すれば一般客も見学することができます。醤油のできる校庭や醸造の歴史のほか、実際の製造工程も見られます。
また、敷地内には御用醤油醸造所、通称御用蔵があります。その名の通り宮内庁に納めるための醤油を醸造する専用の蔵。もともと同じ野田市内の江戸川沿いにありましたが、老朽化激しく、平成23年(2011年)にこの場所に移築されました。
仕込みに使う木桶、屋根の小屋組み、屋根瓦、石垣、門などは移築前のものを使用。内部は見学可能になっています。
キッコーマンの野田工場製造第1部をあとにして、再び県道を西に進みましょう。800mほど進んだ交差点を左折して、さらに道なりに300mほど行くと、長い黒板塀がぐるっと続いています。塀に沿ってまっすぐ50mほどで立派な門構えが。上花輪歴史館(かみはなわれきしかん)です。
こちらは寛文元年(1661年)に野田で醤油を醸造しはじめた家である高梨兵左衛門(たかなしひょうざえもん)の屋敷で、敷地全体が高梨氏庭園として名勝に指定。江戸時代の醤油醸造道具や、村絵図、家相図などの商家の生活と庭園美の両方を観ることができます。(※冬期休館)
歴史館のほど近くには大きなレンガ造りの蔵が。これはキッコーマン野田工場製造第3部煉瓦蔵と呼ばれるもので、残念ながら内部の見学はできません。
来た道を戻り、途中で文政6年(1823年)に彫像された須賀神社の「猿田彦立像丸彫」を眺めつつ、県道17号に突き当たって左に曲がります。
やがて右手に見えてくる洋風建築が興風会館(こうふうかいかん)です。
興風会館は昭和4年(1929年)に完成し、ロマネスクを加味した近世復興式の建築。当時は千葉県内で県庁に次ぐ規模を誇る建物でした。
旧野田商誘銀行
興風会館から北上したところに建つ重厚な洋風建築。大正15年(1926年)に完成した銀行で、醤油醸造家たちが創設したことから醤油→商誘という洒落たネーミングになりました。
内部の見学はできません。
一度ここで県道を離れ、右折します。次いで左へ曲がれば野田市郷土博物館があります。
隣接して市民会館がありますが、この市民会館は醤油醸造家の茂木佐平治の邸宅として大正13年(1924年)ごろに完成し、のちに寄贈されたものです。内部の和室(10室)および茶室は、貸部屋として貸りることができます。
再度県道まで戻り、野田郵便局を過ぎたところにある路地を左に入った奥にお社があります。ここが野田の醤油発祥地とされています。
室町時代の永禄年間(1558年〜70年)に飯田市郎兵衛という人がたまり醤油を製造し、甲斐国の武田氏に納めたとの伝承が残っており、その飯田家の蔵の跡地がここなのです。
県道に戻り、次の角をまた左折すると長い黒板塀が続いています。塀の向こうは地場の醤油メーカーキノエネ醤油の工場。天保元年(1830年)創業の歴史ある醤油メーカーです。残念ながら中を見学することはできません。