富田林のなりたち
戦国時代末期、西本願寺派の興正寺の証秀が土地を購入し、周辺にある4つの村の「八人衆」の協力を得て、土地開発、御堂の建立、六筋七町の町割を実施して地名を「富田林(とんだばやし)」と改称しました。
富田林へのアクセス
近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅から河内長野行で30分、富田林西口駅下車徒歩10分。
自家用車では南阪奈道路羽曳野ICから国道170号(大阪外環状線)経由15分
公開されている2つの邸宅
近鉄長野線富田林西口駅を出て右方向へ進み、国道170号線を横切り、そのまままっすぐ進みます。何度か右折左折を繰り返しながら東へ行けば旧杉山家住宅があります。
富田林寺内町造営の中心的存在「八人衆」の筆頭年寄であった杉山家は、木綿問屋を営んでいましたが、のちに酒造業を創業。富田林寺内町で最古最大の南河内地方農家風建築様式で、当時は千坪もの敷地を誇る豪商でした。
屋根の上には竈(かまど)の煙を出すため越し屋根(煙だし小屋根)が設けられています。
建物の内部も公開されています。なお、ここは明治時代の歌人石上露子(いそのかみつゆこ)の実家でもあります。露子は「新詩社」(明星を発行していた結社)の社友となり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と称されました。
旧杉山家住宅からすぐ角を右に曲がったところに上野呉服店があります。明治40年(1907年)に呉服商を創業した上野家は西向かいにある仲村家の資産だった別宅を買い取ったものです。そのまま進むと三差路になり勝間家住宅があります。富田林の寺内町ではさきほどの旧杉山家住宅とここが公開されています。
勝間家住宅
豪商の大邸宅が立ち並ぶ中、勝間家は一般の民家なので、ややこじんまりとはしています。それでも敷地内には庭園、茶室、水琴窟までもある贅沢さです。土曜、日曜、祝日のみ公開されています
六筋七町の町割りを歩く
勝間家住宅を出たら東へ足を向けましょう。道は北へ折れ城之門筋に入ります。左手に呉服商だった中井家住宅、右手には瀬戸物商の木口家が向かい合って並びます。
寺内町の中の道路は辻ごとに微妙に位置がずれています。これはあて曲げの道と呼ばれ、遠くから見通しが利かないようにわざと道をずらしているのです。戦国時代の自治自衛都市である証左ですね。
左手に武田家住宅とその奥には興正寺別院の鐘楼が見えてきました。最初に述べた富田林を拓いた寺院で、ちょうど寺内町の中心にあたる場所に位置しています。
日本の道百選の碑
昭和61年(1986年)に富田林寺内町中心部を南北に縦断している「城之門筋」が建設省の「日本の道100選」(道の日制定記念)に選定されました
石碑の後ろに聳えるのは、寺内町のシンボルである鼓楼です。釣鐘の形をした花頭窓が特長です。太鼓を設置するための建物で、時報や、緊急事態発生の伝達などの役割を果たしました。
鼓楼を挟んで辻の向かい側には杉田家住宅です。18世紀後半の建造でもとは油屋を営んでいた家です。
城之門筋を挟んですぐ右向かいには田守家住宅。こちらは旧杉山家住宅に次いで古い年代の建築です。屋号を「黒山屋」と称し、祖先が大阪府堺市美原区黒山から移住してきたことからこの名を名乗ったそうです。明治中頃までは木綿商でした。
一度進路を西へとります。南会所町の通りを進み、富筋との辻のところには葛原家住宅があります。2階部分の虫籠窓(むしこまど)と格子窓が見事です。
富筋を北へ行き交流館の角を右へ折れて進めば奥谷家住宅とその分家があります。
奥谷家は代々屋号を「岩瀬屋」と名乗り、大阪府河内長野市岩瀬からこの地に移住したと伝えられています。材木商を営み村役を務めていました。
そのまま北へ向かい、一里山町の通りを超えると寺内町のエリアはおしまいです。