坂越のなりたち
古墳時代には既に人が住んでいた坂越(さこし)は、8世紀にはすでに文献にその名が登場します。港町として発展をはじめ、江戸時代に西廻り航路が開設されると、寄港地として栄えて行きました。
坂越へのアクセス
JR赤穂線坂越駅から徒歩15分。
車なら山陽自動車道赤穂ICから国道250号線経由で約15分
静かな湾に面した町
生島を湾内に抱えた坂越の町は静かな瀬戸内の湾に沿って家並みが続いています。JR坂越駅を出てまっすぐ進み、千種川を跨ぐ坂越橋を渡ります。左に折れて少し行けば坂越三差路。ここから右に入り、坂越の古くから続く町並みに入って行きます。
江戸時代、西廻り航路の開設により賑わいを見せ始めた港には、次々と船が入港してきました。
しばらく行くと右手に見えてくるのは木戸門跡です。ここが港の入口となり、坂越浦の治安維持のため番人を置いて亥の刻以降は門を閉鎖し、罪人が出たときは閉門して検問を強化したとされています。港に着いた積荷はこの門を通って運び込まれました。
木戸門跡の前を通り海へと延びる道は坂越大道(さこしだいどう)と呼ばれ、石畳が敷かれた風情ある町並み。
さらに港へ向かって下って行くと坂越まち並み館が。この建物は大正末期に建築された旧奥藤銀行坂越支店でした。坂越を発着する廻船は赤穂の名産である塩を運んでいましたが、明治期になると塩が専売となったため、銀行に転向したひとつがこの旧奥藤銀行です。
まち並み館からすぐ見えてくるのが、大きな酒蔵。白壁が続く酒蔵は奥藤酒造です。奥藤酒造は慶長6年(1601年)年に廻船業と酒造業を手掛け、その成功を受けて金融、製塩、電灯などの各事業にも参入した豪商。
その母屋は築300年と言われ、入母屋造りの建物で、西国大名の本陣にもあてられていました。併設の奥藤酒造郷土館では酒造、廻船や漁業の資料が展示されています。
もうまもなく海です。三差路に面して佇む建物は旧坂越浦会所です。浦会所とは港を治める役所のこと。天保3年(1832年)に完成しました建物で、会所と同時に赤穂藩の茶屋としての役割も果たし、2階には藩主専用の部屋(観海楼)が設けられていました。
港に出たら、浜をみてまわりつつ、最後に丘に登ってみましょう。宝珠山の中腹に鎮座する大避神社(おおさけじんじゃ)の拝殿両脇の絵馬堂には40ほどの古い絵馬が揚げられています。古くは享保7年(1722年)のものもあるので見ておきませんか。