近江八幡のなりたち
豊臣秀次の支配下にあった近江八幡は、わずか5年の八幡山城統治のあいだに、次々と振興策を打ち出しました。それゆえ近江八幡には商人が集うようになり、商業の町として賑わい始めます。
近江八幡へのアクセス
JR琵琶湖線京都駅から新快速で30分近江八幡駅下車 バスのりかえ10分小幡町資料館前下車すぐ。
自家用車では名神高速道路竜王ICから国道477号、県道2号経由で20分。市営小幡観光駐車場を利用。
近江商人発祥の地
近江八幡の町は豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が八幡山に城を築き、城下町を形成したことに始まりました。
秀次は城堀の八幡堀(はちまんぼり)を琵琶湖と繋いで運河とし、水運の便を図って八幡の町に物資を運びいれることができるようにします。さらに秀吉を見習い、楽市楽座を実施。商業の活性化を狙いました。
豊臣家支配の時代が終わり、近江八幡は天領となりました。八幡の商業は隆盛をみせ、後年近江商人と呼ばれるようになります。
近江商人は近江で商売をする商人という意味ではなく、近江から全国へ行脚してその地その地で商才を発揮しました。その機動力はすばらしく、はるかベトナムやタイまで遠征したほど。
小幡町通りから一本東へ入った新町通りには近江商人の息遣いが聞こえるような立派な町並みが残されています。
切妻造桟瓦葺、平入の木造建築の屋根越しに見える松の木は見越しの松と呼ばれ、風情ある佇まいに一層の趣を添えます。近江八幡ならではの貫見せ(軒下の壁に貫を見せる手法)や、防火のためのうだつなど、意匠の豊かさにも注目。
市立資料館の両脇にはそれぞれ見どころ多い見学施設が。伴庄右衛門邸(ばんしょうえもんてい)は江戸時代初期から隆盛を誇った商家。屋号を「扇屋」と称し、畳表や蚊帳を商っていました。
5代目の伴蒿蹊(ばんこうけい)は商人であっただけでなく国学者としても大成し、近江商人の心得を記した「主従心得草」をはじめ「近世畸人伝」「閑田詠草」などの作品を残しています。
現在残っている住宅は天保11年(1840年)に完成したもの。明治時代になって当時の八幡町に譲渡され、小学校、役場、女学校とその役割は変遷。 戦後は近江兄弟社図書館、後に近江八幡市立図書館となり、現在は資料館の一部として機能しています。
市立資料館
近江商人の西村太郎右衛門の宅地跡にあり、旧近江八幡警察署を利用した「郷土資料館」、森五郎兵衞の控宅だった「歴史民俗資料館」、「伴庄右衛門邸」「旧西川家住宅」の4つの施設からなりたち、近江商人の生活や文化を展示紹介しています
屋号を大文字屋と称し、蚊帳や畳表の商いをしていた西川家の旧西川家住宅は宝永3年(1706年)建築。国の重要文化財に指定されています。
八幡堀を歩こう
そのまま新町通りを北西へ進むと八幡堀に突き当たります。帆を立てた商船が往来していましたが、いつしか荒廃していたものを有志によりかつての姿が復活しました。
八幡堀は幅約15メートル、全長6キロメートルにも及びます。近江商人は八幡堀の地の利を活かして、畳表や蚊帳、米、酒などの地場商品を全国へ出荷して、各地の産物を近江へ持ち帰り、再び各地へ送り出すスタイルで流通させました。(諸国産物回し)
またよく知られる近江商人の商売哲学三方よし(買い手よし、売り手よし、世間よし)は、このような他地での商売を通じて生まれた概念です。
現在、八幡堀は江戸を舞台とした時代劇のロケ地としても使われています。堀の近辺にも風情ある町並みが続きます。
しばらく堀沿いを歩いたら橋を渡って折り返し、シキボウ八幡工場の脇を通れば八幡山ロープウェーの公園前駅に到着します。ロープウェーで山を登り、八幡山城跡を見学するのもいいですね。
公園前駅のすぐ近くには日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)が鎮座。131年、第13代成務天皇即位の時、武内宿禰(たけのうちすくね)に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのがはじまり。
神社の名の由来は275年に応神天皇が神社の近くで休憩した後、その仮屋跡に日輪の形が2つ見えたことから祠を作り、日群之社八幡宮と称されたことによります。
つづいて明治橋を渡ります。コンクリート製の橋ですが風情たっぷりに上手く作られています。この明治橋ともうひとつ白雲橋は八幡堀の景色のなかでも特に時代劇に利用されてきました。
西川甚五郎邸
明治橋からすぐに「ふとんの西川」で有名な西川産業の初代の四男甚五郎の邸宅があります。寛永5年(1628年)に2代目を継いで蚊帳や畳表などを商う「山形屋」を切り盛りしました
ヴォーリズと西洋建築
進路を北東にとって進めば白雲館が右手にあります。明治10年(1877年)に八幡東学校として設立されました。近江商人の寄付で建てられたもので擬洋風の洒落た建築です。現在は観光案内所として使われています。
医薬品、スキンケア製品、リップクリーム、UVケアなどの製造、販売を手掛ける近江兄弟社を設立したウィリアム・メレル・ヴォーリズ、日本名:一柳米来留(ひとつやなぎめれる)はキリスト教伝道師として近江八幡へ明治38年(1905年)に来訪。
この地で英語教師になり、伝道に力を注ぎました。やがて医療、教育、設計に重点を置き、サナトリウムや学校を建設。生涯にわたり財産を持つことなく全て社会事業のために使いました。
ヴォーリズの自宅だった建物はヴォーリズ記念館として今も残っています。
ヴォーリズ記念館からふたすじ戻れば永原町通り。ここもまた古い町並みが残っています。
駐車場まで戻ったら、車で北へ進み、水郷めぐりの舟に乗ってみるのもいいかもしれません。