今井町のなりたち
天文年間(1532年~55年)、本願寺の今井兵部房によって建てられた称念寺が、農民などを門徒化し、浪人や商人が集められ町を形成したのが今井町のはじまりとされています。
今井町へのアクセス
近鉄橿原線八木西口駅 徒歩5分。駐車場はあるものの収容台数はそれほど多くないので、鉄道でのアクセスのほうが吉。
世界的に注目を浴びる都市
奈良県橿原市にある今井町は中世戦国時代の町並みが残ることで知られ、世界的にも注目されています。
鎌倉時代から長らく興福寺が治めていた奈良。今井町もやはり興福寺の荘園でした。一向宗(浄土真宗)の広がりと共に今井町でも一向宗の道場が作られますが、興福寺側に何度も取り潰されます。
やがて興福寺の弾圧の影響が落ちてくると、称念寺を建立し、寺内町を形成していくのです。
戦国時代、野武士や盗賊、他宗派、大名などからの攻撃を防ぐため、町の周辺には濠と土居を巡らせ、僧侶や門徒を守るために備えられました。いわゆる環濠城塞都市です。見通しのきかない筋違いの道路や、九つの門跡がそれを物語っています。
織田信長と一向宗の対立が激化すると、今井町も濠を深くし、武装して抵抗していましたが、本願寺が降伏してしまいます。
今井町も後に続き、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしで武装放棄しました。
そののちは、商工業都市として今井町は発展していきます。今井千軒とか海の堺 陸の今井と呼ばれたほどの隆盛でした。
今西家住宅
永禄9年(1566年)今井町に入町した十市兵衛遠忠の一族。惣年寄の筆頭で、領主や代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていました
大和の金は今井に七分
五代将軍綱吉の頃、今井町にも代官が置かれ、天領として支配されました。1,000軒もの家々と盛んな商取引や金融は幕府にとっても大いに魅力だったのです。藩札と同じ価値のある独自の紙幣今井札も流通し、大和の金は今井に七分とか金の虫干し玄関までと言われるほどに繁栄していました。
幕府は今井町に惣年寄や町年寄を置き、警察権などを与え、自治的特権を与えます。親戚以外の者を町内に泊めることを禁止するなどの町独自の掟も決められて自治自衛が徹底されました。
今井町は東西約600m、南北約310m。全建物数約1500棟弱のうち、約500棟が伝統的建造物という優れた町並み。
今井町の西の端にその名のとおりには「今西家住宅」があり、東へ歩けば「豊田家住宅」「中橋家住宅」があります。
豊田家住宅
永禄9年(1566年)大名貸しや藩の蔵元をつとめた豊田家。屋根は入母造本瓦葺、軒は高く、2階は出桁造、2階正面壁には○に木の字の紋があります
中橋家住宅
屋号を「米彦」といい、江戸時代は米屋を営んでいました
中橋家の向かいには称念寺。山門の隣には弘化2年(1845年)に建築された太鼓楼があります。
そのままさらに東へ進めば「高木家住宅」です。
高木家住宅
高木家は、屋号を「大東の四条屋」といい、酒造業を営んでいました
さらに北へ足を進める
今度は向きを北へ変えて進みます。すぐに「河合家住宅」に到着します。こちらも酒造業。
進路をまた西へ変えてしばらく行くと「旧米谷家住宅」、そして「音村家住宅」と続きます。
旧米谷家住宅
屋号は「米忠」。金具商。裏庭にある蔵前座敷を付属させた土蔵は嘉永2年(1849年)建設の建物
再び向きを北へ変えれば家の入口を西に構えた「上田家住宅」。入母屋造本瓦葺平入、大壁造の妻を見せた外観は重厚な趣です。そのまま北上し北口門跡で今井町探索は終わりです。
江戸時代に隆盛を見せた今井町ですが、明治維新により富豪が消滅、大正時代の鉄道開通で町の賑わいは駅周辺に移ってしまいました。
現在、9件の建物が重要文化財に、3件が県指定文化財に指定され、地元の努力により町並みがしっかり保存されています。