竹原のなりたち
京都・下鴨神社の荘園としてその名が残る竹原は、海が近かったため新田開発をしても塩害で米が生育しにくい環境でした。それを逆手にとって製塩が盛んとなりその利益から商家が建ち並び隆盛を迎えます。
竹原へのアクセス
鉄道ならJR呉線竹原駅から徒歩圏内。自家用車の場合は山陽自動車道河内ICから国道432号経由で約20分。有料駐車場を利用。
のんびり歩く竹原の町並み
JR呉線竹原駅を出て、駅から続く通りを北東へ歩いて行けば本川の流れに辿りつきます。正保4年(1643年)に本川堀の船着き場が開かれると廻船の往来も活発となり、塩業で財をなした商家がそれぞれに豪奢な邸宅を建て始め、今に続く町並みを形成しています。
儒学者の頼山陽(らいさんよう)の父、頼春水(らいしゅんすい)を輩出した町であり、本川のたもとには頼山陽の像が立っています。
頼山陽
江戸時代後期の歴史家、思想家。主著は武家の時代史である「日本外史」があり、俗的で誤記も多いと酷評も受けましたが、幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えました
頼山陽像から右に折れ、笠井邸の前を左に曲がると本町通りです。この本町通りを中心として、大小路、板屋小路、中ノ小路など多くの路地があり、江戸時代往時の生活を間近に感じられます。この区域は昭和57年(1982年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
そしてすぐに右手に見えてくるのが、小笹屋酒の資料館です。ここは「日本のウイスキーの父」と言われたニッカウヰスキーの創始者竹鶴政孝(たけつるまさたか)の生家。
現在も長く続く蔵元「竹鶴酒造」であり、屋号が「小笹屋」です。江戸時代築の蔵を改築した資料館は、代々伝わる酒器や酒造りの道具など約50点を展示しています。試飲も楽しめます。
資料館の斜め向かいに威風堂々と構えるのが松阪邸。
入母屋造り、平入り、間口七間の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋でつないだ表屋造りになっている独特の造りをしています。唐破風の屋根、菱格子の塗り込めの窓が豪趣で竹原の数ある商家建築のなかでも、いちだんと立派なものです。
松阪家は初代が延宝2年(1674年)に広島から移ってきた家で、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋や石炭問屋を中心に、塩田、廻船、醸造業とさまざまに多角経営を行っていました。
岩本邸、二宮邸を過ぎると辻があり、左は板屋小路。そちらへは曲がらず、すぐ先で右折して石段を登って行くと西方寺の境内に入ります。
こちらには清水寺の舞台を思わせる普明閣があり、方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根の舞台作り。宝暦8年(1758年)に建設されました。眺望がよいので、竹原の町並みを見下ろすことができます。
ふたたび本町通りに戻って来ました。
吉井邸が重厚な構えを見せてくれます。吉井家は町年寄の家系で、母屋は元禄3年(1690年)に建てられ、広島藩の本陣として利用されていました。
次の路地、大小路に入ると春風館と復古館があります。春風館は頼山陽の叔父である儒医、頼春風(らいしゅんぷう)の家。塩田の経営をしながら学問にも力を入れ、町の子弟の教育にあたり、寛政5年(1793)には「竹原書院」の設立に努力し、竹原の文化の向上に尽力しました。
頼春風の養子である小園もまた春風館の隣に分家を建て、これが復古館の主屋の建物となります。木造切妻造二階建、本瓦葺の数奇屋建築で、酒造業や製塩業を営みました。
そのまま道を突きあたり右に曲がれば中ノ小路に入ります。
少し先には藤井酒造酒蔵交流館。江戸末期に建てられた酒蔵を一部開放しています。
まっすぐ進めば照蓮寺(しょうれんじ)の境内に入ります。頼春水一門などがここで学び、菅茶山や頼一門の筆墨など多くの古文書類が残されています。また、峻豊4年(963年)、高麗(こうらい)の光宗の時代に作られた朝鮮製の鐘があり、これは小早川隆景が朝鮮の役の際に持ち帰って幼時の学問所であった照蓮寺に寄進したものです。
南東側の門をくぐり出たところには、酒造用の井戸があり、井戸の石組みには天保3年(1683年)と銘が刻まれています。
すぐそばの三差路には道の真ん中にお社も。恵比須社と呼ばれる社で、前室付、一間社流造り。江戸時代中期の建築と考えられています。
ここでロケの一部を行った映画「時をかける少女」の作中でも、神社の姿を見ることができます。
本町通りに戻って来ました。南東へ向けて進んで「まちなみ竹工房」の角を左に折れて狭い坂を登ればお抱え地蔵です。散策の記念にぜひ抱えてみましょう。
お抱え地蔵
願い事を胸に祈りながら地蔵を抱えてみて、想像したより軽ければ願い事が叶うといわれています