倉敷のなりたち
周辺は阿智潟と呼ばれる干潟だった倉敷の町は港町としてその歴史をスタート。江戸時代に天領になると高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が整備されて内陸の港町に変化し、年貢米の集積地となりました。
倉敷へのアクセス
倉敷美観地区へはJR山陽本線倉敷駅より徒歩14分、もしくはバス5分。
周辺にはマイカー用の有料駐車場も整備されています。
大原家の尽力で成長した倉敷
元来港町として出発した倉敷ですが、干拓事業により倉敷の港としての機能は著しく後退。寛永年間(1640年頃)に倉敷に代官所が設置されたことで陣屋を中心とする陣屋町として発展することになりました。
その結果、倉敷は年貢米の集積所として富を集めます。倉敷代官所は商人たちの自治を認めて優遇、これによって領地は名目上5万石ほどでしたが、実質は10万石以上を支配していました。その倉敷代官所は現在の倉敷アイビースクエアのあたりにありました。
倉敷アイビースクエアは明治22年(1889年)に建設された倉敷紡績(クラボウ)の旧工場で、昭和48年(1973年)に改修されて、現在は宿泊・観光施設として利用されています。
倉敷アイビースクエア
現在も倉敷紡績の登記上の所在地であり、建物は平成19年(2007年)に経済産業省より「近代化産業遺産」に認定されました
倉敷紡績は江戸時代に新禄派と呼ばれた新興の商人であり名主であった大原家が出資して明治21年(1888年)に倉敷の地で創業した企業。初代社長には当主の大原孝四郎が就任しました。
その子である大原孫三郎(おおはらまごさぶろう)は孝四郎のあとを受け、次々と新事業を打ち出します。
中国水力電気会社(現・中国電力)や倉敷絹織(現・クラレ)を設立したり中国合同銀行(現・中国銀行)の頭取を務めたりしました。
なかでも文化事業として高い功績を評価されているのが大原美術館の建設です。
こちらは西洋美術を中心とするものでは日本初の私立美術館で、昭和5年(1930年)に設立されました。 孫三郎が援助していた洋画家児島虎次郎(こじまとらじろう)に託して収集した西洋や日本の近現代美術、東洋の古美術などの幅広い作品を所蔵しており、ギリシャ神殿を模した本館がシンボルとなっています。
倉敷川を挟んで、大原美術館の向かいにあるのが大原邸です。寛政7年(1795年)に主屋の建築が先に建設されて、のちに座敷部分が増築されています。
また大原邸の隣には有隣荘(ゆうりんそう)。大原孫三郎が夫人のために昭和3年(1928年)に建てた別邸で、屋根瓦の色から地元の人には「緑御殿」と呼ばれていました。年に数回、大原美術館の特別展の会場として公開されています。内装は児島虎次郎によるものです。
蔵屋敷と商家の町並み
有隣荘から倉敷川に沿い少し北西に行くと、右手に細い路地があります。入っていきましょう。この路地は奈良萬の路地と呼ばれ、倉敷で最も美しい路地だと称されています。白壁や黒板塀が両側に並んで、白と黒のコントラストを描いています。
路地を抜けたら左折して、しばらく直進。左手に見えてきたのが大橋家住宅です。
水田や塩田を開発して大地主となり、金融業を営んで財をなした家で、街道に面して長屋を建て、内側に主屋を構えています。
踵を返して、来た道を戻ります。そのまま本町通りまで直進して通りで右折します。少し進めば中国銀行倉敷本町出張所の重厚な建物が聳えています。
第一合同銀行の倉敷支店として1922年(大正11年)に建てられ、 正面に6本、側面に3本の円柱とドーム型のステンドグラスが特長のルネサンス様式。現在も営業しています。薬師寺主計(やくしじかずえ)による設計で、大原美術館や有隣荘、倉敷中央病院なども彼の設計によるものです。
倉敷川に揺れる柳
本町通りには古い町並みがよく残っていますので、のんびり眺めながらそぞろ歩きしたいもの。
ほどよく見て廻ったら、通りを折れて、倉敷川のほうへ戻ります。
川のたもとに佇む倉敷考古館は江戸時代の蔵を改装した建物です。
側面には「なまこ壁」と呼ばれる貼り瓦の壁が。
考古館の前に架かる橋を渡れば観光案内所の倉敷館が凛とした姿で建っています。旧倉敷町役場として大正5年(1916年)に建設されたものです。
この辺りは倉敷の美観地区を代表するエリア。
倉敷川に沿って植えられた柳並木と白壁の土蔵や近代建築が風景に溶け込んでいます。夜間はライトアップもされています。
川沿いに建つ日本郷土玩具館もライトアップされていますね。