全国伝統歴史 町並み散歩/古い城下町や宿場町、古民家を写真で観光

一日では廻れない見どころの多さ
城下町「萩」の町並み

山口県 萩(城下町)
武家商家民家

 萩のなりたち

豊臣秀吉に仕えた毛利輝元は中国地方の大半の所領としていましたが、徳川家康によって周防・長門の2国に減封され、萩に城を築くよう命じられました。

 萩へのアクセス

中国自動車道美祢東JCTから小郡萩道路絵堂IC経由で国道490号、国道191号から萩市街へ。
鉄道ではJR山陰本線東萩駅下車。駅前でレンタサイクルを借りられます。1日1,000円。


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 萩藩の隆盛を城下町に見る

萩の町は非常に多くの見どころがあり、しかも広範囲にわたるので、できれば2日くらいかけてゆっくり見て廻りたいもの。たとえば初日はのんびり徒歩で、2日目はレンタサイクルを借りるなどして萩を満喫しましょう。

毛利輝元(もうりてるもと)は関ヶ原の戦いのあと周防・長門30万石に減封されたものの、それにもめげず再度検地をおこない石高を50万石以上にまで上昇させます。幕府はそれを面白くなく思い、城を山口や防府ではなく萩に置くよう進言。当時の萩は何もないさびしい土地だったのです。

それでも命令は命令なので輝元は指月山(しづきやま)に面した干潟を埋め立て、そこに築城しました。萩城です。指月城とも呼ばれました。山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城でしたが、明治7年(1874年)に全て解体されてしまい、今では城壁と堀が残っています。

萩城跡

萩城跡から南方に歩みを進めると旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の長い建物が見えます。厚狭毛利家は毛利元就の五男である元秋を始祖とする毛利氏一門。屋敷は1万5千平方メートルもの広大な敷地に建てられ、現在残っているのは長屋部分のみです。

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩八景遊覧船の乗り場を過ぎて右折し、南へ進めば口羽家住宅(くちばけじゅうたく)の立派な門が右手に。口羽家は毛利氏の庶流で、石見国邑智郡口羽村を所領としたことから口羽の姓を名乗っていました。表門は江戸桜田にあった藩邸の門を下賜されたものです。

口羽家住宅

すぐ近くには堀内鍵曲 (ほりうちかいまがり)が風情ある佇まいをみせます。鍵曲は鍵の手に曲がった道のことで、有事の際に敵の侵入を防ぐためにあえて見通しを悪くした城下町ならではのものです。

堀内鍵曲

東へ向かい右に曲がるところには石橋が架かっています。平安橋(へいあんばし)です。日本百名橋にも選ばれた橋で、萩城の外堀に架けられたもの。萩城三の丸から城下町へ通じる道にあり、玄武岩で造られています。

平安橋

橋本川の川岸をのんびりと歩き、国道191号を越えると平安古地区に入ります。こちらにも鍵曲があります。

平安古鍵曲

そばの「かんきつ公園」には旧田中別邸が移築されています。

旧田中別邸

旧田中別邸

もとは萩藩士だった小幡高政(おばたたかまさ)の屋敷で、高政は夏ミカンの栽培を奨励した人物。夏ミカンは萩の名産となっています。屋敷はのちに第26代内閣総理大臣の田中義一の別邸となりました

踵を返し、尊王攘夷運動を牽引した立役者「久坂玄瑞誕生地」の碑を通り過ぎて、藩政改革を行い明治維新に長州藩が活躍する財政的基盤を築いた人物である村田清風別宅跡まで戻ります。現在は長屋門だけが残り、母屋跡には顕彰碑があります。

村田清風別宅跡

再度堀内エリアに入り、東へ向かうと萩観光で最も賑わう地区になります。まずは菊屋横丁から見ていきましょう。

菊屋横丁は萩藩の御用商人であった菊屋家住宅の脇を通る道。なまこ壁が続く美しい町並みで、日本の道100選にも選ばれています。

菊屋横丁

菊屋横丁に入るとまず高杉晋作誕生地を訪れたいもの。日本初の軍事組織である「奇兵隊」を下関市で挙兵し、討幕戦を勝利へと導いた人物です。誕生地には建物、書物、井戸、句碑などが残っています。

高杉晋作誕生地

北上すると「田中義一生誕地」があり、次いで横丁の名の由来となった菊屋家住宅が重厚な佇まいを見せてくれます。菊屋家は元来武士でしたが、毛利輝元が萩城を築城する際に萩に入り、のちに豪商として名を馳せました。二千坪もの敷地には何棟もの建物が建ち並び、5棟が国の重要文化財に指定されています。

菊屋家住宅

菊屋横丁は御成道(おなりみち)に突き当たります。御成道とは藩主が参勤交代の時などに通る道のこと。御成道を挟んで菊屋家住宅に向かい合うのが旧久保田家住宅
呉服商、酒造業を営んでいた旧久保田家住宅の主屋は、幕末あたりに建てられたもの。屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持っており、そのぶん江戸初期に建てられた菊屋家住宅に較べて高さがあります。

旧久保田家住宅

菊屋横丁の一本東には呉服商伊勢屋があった伊勢屋横丁、その東には江戸屋があった江戸屋横丁と続きます。

江戸屋横丁

江戸屋横丁には13代藩主毛利敬親(たかちか)の侍医を務めた青木周弼(あおきしゅうすけ)の生家があります。シーボルトに師事した蘭方医であり、村田清風とも交流がありました。

青木周弼旧宅

すぐ北には木戸孝允旧宅(きどたかよしきゅうたく)が。桂小五郎の名でも知られています。尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通とともに「維新の三傑」とされています。この住宅は孝允が20歳まで住んでいました。

木戸孝允旧宅

御成道に出たら西へ戻りましょう。「萩博物館」の手前で右折し、平成16年に復元された「北の総門」を眺めつつ再び進路を西にとると旧益田家物見矢倉(きゅうますだけものみやぐら)が見えます。
矢倉とはいわゆる武器庫で、見張り台を兼ねたものを物見矢倉といいます。北の総門から出入りする人物を監視するためのものでした。

旧益田家物見矢倉

益田家は石見国益田を本拠とした武家で、毛利氏の家臣として各合戦に参戦。関ヶ原の合戦に敗れたのち、徳川家康に徳川家の家臣になるよう進言されものの、20代当主益田元祥(ますだもとなが)はこれを固辞。毛利輝元は感激して益田氏を永代家老としました。

すぐ先には旧周布家長屋門(きゅうすうけながやもん)です。周布家は石見国周布(島根県浜田市周布)を所領としていたのでその名を名乗っていました。木造平屋建て本瓦葺きで、江戸中期の代表的な武家屋敷長屋の様式をよく残しています。

旧周布家長屋門

あとは一本南の通りへ出て西へ進み、14代藩主毛利元徳(もうりもとのり)が建て、現在地に移築された「旧毛利家別邸表門」や、毛利輝元の墓がある「天樹院墓所」などを見て1日目を締めくくりましょう。


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 維新を作りだした町

2日目は市内の東部を廻っていきます。
市街の端、萩商港のそばにひろがる浜崎地区もまた伝統的な町並みが残る地区です。

浜崎の町

浜崎は萩の城下町が作られるのに伴って開かれた港町。北前船の寄港地として廻船業で栄えました。またイリコなどの水揚げも多く、名産の夏ミカンの出荷もここから行われました。江戸時代から昭和初期に建てられた町家が今でも数多く良い状態で残っています。

太皷谷稲成神社

浜崎地区の中心的存在の建物が旧山村家住宅です。江戸時代後期建造の町屋で、京都や大阪の豪商の邸宅に見られた「表屋造り」と呼ばれる造りをしています。表屋造りは店棟と居住棟の間に玄関庭を設けるスタイル。
当時の生活が垣間見える邸内を無料で見学できます。

旧山村家住宅

旧山村家住宅のすぐ斜め向かいには浜崎地区の典型的な町屋である旧山中家住宅が。昭和初期に建てられた商家で海産物を扱っていました。

旧山中家住宅

この他にも浜崎地区には藩主の御座船や軍船を格納した倉庫である「旧萩藩御船倉」や「梅屋七兵衛旧宅」などの見どころがあります。
ひととおり見学がすんだら、再び萩市街地、萩警察署の近くまで戻ります。

小川家長屋門

小川家長屋門

小川家は萩藩の大組士。長屋門は家の表門。木造平屋建入母屋造桟瓦葺で、27.39mの長さがある建物です

小川家長屋門からほど近くにあるのが奥平家長屋門です。萩藩の中級武士だった奥平家。これもまた26.65mと長い建物で、道路に面した西側に4箇所の出格子窓があるのが特長です。

奥平家長屋門

南へ下っていくと藍場川(あいばがわ)の流れに行きつきます。この川はもともと農業用の水路でしたが、延享元年(1744年)に6代藩主毛利宗広(もうりむねひろ)の命によりさらに開削されました。それにより舟での往来ができるようになります。のちに藩の藍場(藍玉座)ができ、それによって川の水が藍色に染まったことからこの名がついたといいます。

藍場川

藍場川沿いにあるのが桂太郎旧宅です。3度も内閣総理大臣を歴任し、拓殖大学を創設した人物で、萩の出身者の代表のひとりです。比較的こじんまりした建物ですが、藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園を持ち、家屋の縁側には水琴窟(すいきんくつ)があって、美しい音色を愉しむことができます。

桂太郎旧宅

すぐそばには藩政時代の武家屋敷である旧湯川家屋敷。藍場川に沿って長屋門があり、屋敷には橋を渡って入っていきます。

旧湯川家屋敷
旧湯川家屋敷

旧湯川家屋敷

屋敷の中に藍場川の流れをそのまま引き込んで洗い場にしています。「ハトバ」と呼ばれ、雨の日でも濡れることなく水仕事ができる工夫がみごとです

続いて松本川を渡り、JRの線路を越えて東へ向かいましょう。旧松本村地区のここを代表する史跡といえばやはり松下村塾(しょうかそんじゅく)でしょう。

松下村塾

松下村塾は天保13年(1842年)に教育者で山鹿流の兵学者の玉木文之進(たまきぶんのしん)が自邸にて開設した私塾。安政3年(1856年)からは松下村塾で学んだ吉田松陰(よしだしょういん)が実家杉家邸内の納屋を増改築して開きました。身分の区別なく学ぶことができ、維新を導き近代日本の礎となった人材が多数輩出されました。

松陰は、安政元年(1854年)伊豆下田でアメリカ軍艦で海外渡航しようとして失敗。捕らえられたのち、萩に送られ野山獄に入れられました。釈放されますが謹慎扱いとなります。謹慎していた住居が吉田松陰幽囚ノ旧宅として松下村塾のそばに残されています。松陰が松下村塾で教鞭を執るのはこの謹慎のあとの話です。

吉田松陰幽囚ノ旧宅

しかし、松下村塾は江戸幕府の弾圧によって松陰が投獄、死罪となったため(安政の大獄)、廃止されてしまいます。維新後、再度復活し明治25年(1892年)まで存続しました。
松陰の霊を慰め奉ったのが松陰神社(しょういんじんじゃ)です。

松陰神社

松陰神社からさらに東へ歩くと伊藤博文旧宅に到着します。博文は山口県光市で生まれ、木戸孝允の義弟である栗原良蔵(くりはらりょうぞう)の紹介で松下村塾で学びました。その後尊王攘夷運動に参加、維新後は明治政府の重鎮として働き、明治18年(1885年)初代内閣総理大臣に就任しました。
この旧宅には博文が明治元年(1868年)に兵庫県知事に赴任するまで居住。木造茅葺平屋建、約29坪とこじんまりした造りの民家です。

伊藤博文旧宅

旧居の隣には明治40年(1907年)に博文が東京都品川区に建てた別邸の一部(玄関、大広間、離れ)が移築、公開されています。宮大工の手による意匠を凝らした造りで、簡素な旧居との対比もおもしろいですね。

伊藤博文別邸

さらに東へ行くと松下村塾の創設者である玉木文之進の旧宅があります。文之進は吉田松陰の叔父にあたります。維新後、旧体制下の多くの士族は身分も職も失い不満を高じさせていきました。ついに明治9年(1876年)、前原一誠(まえばらいっせい)が萩の乱を起こします。この乱に松下村塾の門下生が多く参加したことから責任を痛感した文之進は自害しました。

玉木文之進旧宅

維新の動乱と明治政府の新政治の混乱、のちの議会政治の始動までの時代を色濃く見せる萩の町。このほかにもまだ史跡が多くあります。ぜひたっぷり時間をかけて巡ってみてください。


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画像引用:萩市様(https://plus.google.com/photos/111720491389611397660/
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社団法人山口県観光連盟様(http://www.oidemase.or.jp/shashinkan/index.asp)