関宿のなりたち
古代から鈴鹿の関が置かれたとされる場所で、この地に開創された地蔵院の近辺に中世以降、門前町が作られたのがおこりです。江戸時代になると東海道の47番目の宿場になり、以降は宿場町として発展しました。
関宿へのアクセス
JR関西本線関駅へは名古屋駅から関西本線で約1時間20分。
自家用車では東名阪自動車道亀山ICから国道1号線経由10分弱で関市街地。JR関駅西側にある道の駅関宿に車を駐車すると便利。
東追分から西追分へ歩く
JR関駅を出ると、すぐ国道1号線。
ここを右折してまずは東追分を目指しましょう。国道1号を東へ5分ほど進むと「木崎町」交差点がありますのでこれを左へ。これも広い道ですが、しばらく行くと幅員が狭くなり生活道路の雰囲気が漂い始めます。この道は伊勢神宮へ向かう伊勢街道へと続く伊勢別街道(いせべつかいどう)で、その起点がこちらの関宿なのです。
ちょっとした坂道を登れば鳥居が見えてきました。鳥居をくぐった交差点が伊勢別街道の起点であり、東海道との交点である東追分(ひがしおいわけ)。これより西の1.8km先までが関宿です。左折して東海道に入りましょう。
東追分の鳥居は20年に1度ある伊勢神宮の式年遷宮の際に、内宮宇治橋南詰にある鳥居が移されてきます。
このあたりは木崎(こざき)と呼ばれるエリアで、平屋や中二階の低層の町屋が続いています。二階部分は木部をあらわした真壁(しんかべ)が主流になっており、簡素ながらも趣ある町並みを造り上げています。
木崎を抜けると中町(なかまち)エリアに入ります。道の左右にぎっしりと家が立ち並んでいたのが、ぽかんと数軒分ほどの広さの広場に出てきました。このスペースは御馳走場(ごちそうば)と呼ばれ、関宿に入る大名行列を宿の者が出迎えたり見送ったりするための広場です。関宿には御馳走場が4箇所あります。
まっすぐ行くと右手に銀行の建物が。看板通りの百五銀行関支店です。景観に配慮した設計で思わず目を引きますよね。
中町には本陣・脇本陣・問屋などが置かれ、旅籠が立ち並ぶ宿場の中心でした。二階の壁面も塗籠めて虫籠窓を設置するなど、より華やかな意匠の町屋が目立ちます。
そんななかで、橋爪家(はしづめけ)の建物は道路に面して三角形の屋根を持つ関宿では珍しい構造になっています。橋爪家は江戸初期から両替商を営んでいた豪商で、江戸に店を持つまでに隆盛を誇っていました。
すぐ先の右手には白い漆喰壁が目立つ関宿旅籠玉屋歴史資料館があります。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謳われた関宿を代表する旅籠です。
現在は資料館として公開され、江戸時代の歴史資料とともに安藤広重の浮世絵が展示されています。
すぐ隣の関郵便局の前には高札場(こうさつば)。高札場とは幕府からの禁止事項や宿場の決まりごとなどが掲げられたもので、関宿の高札場は8枚掲げられていたそう。現在あるものは平成16年(2004年)に復元されたものです。
先に進み、ゆるやかな右カーブの左手に見えてくる大屋根は地蔵院(じぞういん)のものです。
地蔵院は天平13年(741年)に行基が創建したといわれ、我が国最古の地蔵菩薩。遠くからでもはっきり見える関宿のシンボルである本堂と、鐘楼、愛染道は国の重要文化財に指定されています。
地蔵院から先は新所(しんじょ)エリア。
地蔵院の門前にあたる付近は中町エリアと似ていて、中二階の町家が多いものの、西へ向かうにつれ小さな平屋が増えてきます。
中心部の喧騒からだんだん離れて落ちついた雰囲気の町並みをまっすぐ進んでいくと西追分(にしのおいわけ)。ここが関宿の西端となります。
西追分
ここより東海道と大和・伊賀街道が分岐しています。大和街道は奈良へ進む街道です。「南無法蓮華経 ひたりハいかやまとみち」と彫られた石碑があり、これは元禄年間に旅人の道中安全を祈願して建てられたそう