金沢のなりたち
金沢の名は、かつて芋掘り藤五郎が山芋を洗っていた際に砂金が出たためその地を「金洗いの沢」と呼んだことに由来します。沢は兼六園にある金沢神社の脇に金城霊沢(きんじょうれいたく)の名で残っています。
金沢へのアクセス
北陸自動車道金沢東ICから国道359号経由で約10分。
鉄道ではJR北陸本線・IRいしかわ鉄道金沢駅下車、北鉄バス乗り換え。ひがし茶屋街へは橋場町下車、徒歩10分。
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ひがし茶屋街を歩く
金沢の町は寺内町の性格が強かったのですが、天正8年(1580年)に佐久間盛政(さくまもりまさ)が本願寺の一向一揆の拠点が置かれた尾山御坊を制圧し、尾山城を築城したことにより現在まで残る城下町の特色が萌芽していきます。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いののち、前田利家(まえだとしいえ)が尾山城(金沢城)を居城としてからは、城下町には二重の堀が整備されて「環濠都市」の性格を併せ持ちました。また寺院は統制のため3か所にまとめて配置されました。
その後、前田家は明治の廃藩置県まで、百万石の加賀、越中、能登三国を統治し、繁栄を謳歌します。その盛隆を受けて城下は大いに賑わいました。金沢の城下町近郊を流れる犀川(さいがわ)、浅野川両界隈には茶屋が軒を連ね、計3つもの茶屋町が成立したのです。
金沢東ICから国道359号を市街へ向かえば、浅野川の手前を左折したところにひがし茶屋街(ちゃやがい)があります。
茶屋町創設の時代から残る敷地割と茶屋様式の町屋は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
特長的な出格子はキムスコ(木虫籠)と呼ばれ、夜になれば風情ある軒灯により一段と情緒あふれる町並みに。茶屋からは三味線や太鼓の音が聞こえてきます。五木寛之「朱鷺の墓」の舞台としても有名。
茶屋街にある志摩は、文政3年(1820年)に建てられた茶屋で、建築当初からの姿そのまま。2階を客間とし、押し入れや物入れ等は作らずに、遊興を主体とした粋な造りになっています。内部は見学可能です。
もう2つの茶屋街と武家屋敷
ひがし茶屋街から浅野川を渡り、右へ折れると川沿いに続く主計町茶屋街(かずえまちちゃやがい)です。加賀藩士であった富田主計(とみたかずえ)の屋敷があった場所であることからこの名がつきました。
界隈には明治時代から戦前にかけて大いに栄えた茶屋街の佇まいが残り、昔ながらの料亭や茶屋が趣き深く建ち並んでいます。
主計町という町名は尾張町2丁目の一部となって一時期消滅していましたが、平成11年(1999年)に住居表示の実施に伴い全国で初めて旧町名が復活しました。
次に訪ねたいのは武家屋敷。金沢の繁華街香林坊へ向かいます。賑わう繁華街から路地を入って進んだところにあるのが長町武家屋敷跡です。
百万石もの石高を計上し経済的に潤っていた加賀藩の金沢には、加賀八家(かがはっか)と称された重職の家臣などが立派な屋敷を構えていました。
加賀藩の中級武士が暮らしていたこのあたりは、土塀と石畳が続く道で繁華街のすぐ近くであることを忘れさせてくれて雰囲気たっぷり。鞍月用水、大野庄用水の流れも趣を添えます。土塀を雪から守る「こも掛け」は冬の金沢の風物詩。
なかでも武家屋敷跡野村家は必見です。加賀藩士の野村伝兵衛信貞の屋敷跡で、樹齢400年の山桃をはじめとした庭園が圧巻。
旧加賀藩士高田家跡
加賀藩政時代の長屋門を修復して一般公開しています。敷地内には大野庄用水を使用した曲水を設け、アカマツの巨木を中心に配された池泉観賞式武家庭園があります
すぐ近所の大屋家住宅は、江戸時代末期に建てられた武家屋敷。明治時代に改修されたものの、建築当時の姿を今でも強く残しています。
犀川を渡り、野町広小路の交差点を右折して2つ目の路地を左へ曲がればにし茶屋街の町並みが広がります。
規模はひがし茶屋街ほど大きくありませんし、整備されすぎた感も否めませんが、観光客がそれほど多くないのでゆったり散策できます。
茶屋街の中程にある「華の宿」では茶屋様式の建物を無料で見ることができます。茶屋街を堪能したあとは忍者寺の異名を持つ妙立寺にも行っておきましょう。
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